
法で裁けぬ悪を討つ物語、最近よく見かける。



韓国ドラマやマーベルでも、私刑執行人が人気だ。



創作だから描ける正義の葛藤が興味深い。



そのヒリつく緊張感が人を惹きつけるのかも。
近年、私たちの周りでは、法律で裁ききれない悪に対し、個人が「正義」を執行する物語が、ジャンルを問わず大きな人気を集めています。マーベルのドラマシリーズから韓国ドラマ、そして日本の漫画に至るまで、「私刑執行人」とも言うべきダークヒーローたちが躍動し、多くの視聴者や読者の心を掴んでいます。なぜ私たちは、法を逸脱した「裁き」の物語にこれほどまでに惹きつけられるのでしょうか。本記事では、エンターテイメント作品に描かれる「私刑」というテーマを手がかりに、それが映し出す現代社会の心理と、現実世界における「正義」との複雑な関係性について深く考察していきます。
エンターテイメントが描く「私刑執行人」というダークヒーローの魅力


エンターテイメントの世界では、法の手が届かない、あるいは見逃されてしまう悪を断罪する存在が、一種のヒーローとして描かれることがあります。その象徴的な例が、マーベル最新ドラマシリーズ『デアデビル:ボーン・アゲイン』に登場する“怒れる処刑人”パニッシャーです。彼は、犯罪によって家族を失った復讐心から、悪人たちを容赦なく処刑します。彼の行動は紛れもない犯罪ですが、その背景にある悲しみと、彼が標的とするのが凶悪な犯罪者であることから、多くのファンが複雑な感情を抱きながらも支持しています。この作品は、ディズニー公式動画配信サービス「Disney+(ディズニープラス)」で独占配信され、改めてその人気を示しています。
同様のテーマは、国境を越えて共感を呼んでいます。ナム・ジュヒョク主演の韓国ドラマ「ヴィジランテ」もその一つです。この作品では、主人公が昼は警察大学の模範的な学生、夜は法で裁かれなかった犯罪者たちに私刑を下す「ヴィジランテ」という二つの顔を持ちます。法制度の限界や矛盾に一石を投じる彼の姿は、視聴者に強烈なカタルシスをもたらし、大きな話題となりました。謎の助っ人が登場するなど、物語はさらに複雑な様相を呈し、単なる勧善懲悪に留まらない深みを見せています。
日本でもこの潮流は顕著です。『私刑執行人〜殺人弁護士とテミスの天秤〜』といった漫画は、ネットで大反響を巻き起こしランキング上位に食い込むなど、多くの読者の心を捉えています。また、コミックの映像化やドラマのコミカライズが盛んに行われる昨今、俳優の間宮祥太朗が主演を務めるWOWOW連続ドラマWー30『ハスリンボーイ』も注目されます。池袋の裏社会に足を踏み入れた大学生を描くこの物語は、法と非合法の境界線で生きる人々の姿を通して、視聴者に「ヒリヒリ感を味わっていただければ」と問いかけます。これらの作品に共通するのは、現実の社会システムに対する不満や無力感を背景に、フィクションの世界で代理的に「正義」が執行されることへの渇望です。私たちは、法が必ずしも万能ではないという現実を知っているからこそ、こうしたダークヒーローたちの存在に、歪んだ形でありながらも希望や爽快感を見出してしまうのかもしれません。
「裁きのエンタメ化」と現実社会の死刑制度が抱える重み


エンターテイメントにおける「裁き」の描写が過激化し、身近になる一方で、その影響は現実社会の議論にも影を落としています。特に、国家による究極の刑罰である「死刑」に対する人々の認識に、その影響は色濃く表れているように思われます。ネット上では「執行ボタン押すのスキマバイトです」といった、死刑執行を軽視し、エンターテイメントのように消費しようとする投稿が見られます。こうした言説は、一部の過激な意見かもしれませんが、そこには「処刑をエンタメとして消化しようとする」人間の心理が透けて見えます。このような感覚が、一般人が死刑執行に携わることの是非を考える上で、極めて重要な論点となります。
現実の死刑執行は、フィクションで描かれるような単純なものでは決してありません。「死刑執行のボタンを押したい」と安易に口にする人がいる一方で、実際にその任に当たる刑務官は、計り知れないほどの精神的ストレスを負うことが知られています。複数のボタンを同時に押す方式が採用されているのは、誰が直接執行したかを分からなくするためですが、それは同時に「これだけストレスを与えられる重大なことだ」と関係者に理解させるための儀式的な意味合いも大きいと指摘されています。ボタン一つで人の命を奪うという行為の重圧は、当事者でなければ到底理解できるものではなく、中にはそのストレスで自らの命を絶ってしまう執行人もいるほどです。これは、首を刎ねるサンソンの時代とは形こそ違えど、人の命を奪うという行為の本質的な重みが変わらないことを示しています。
フィクションにおける私刑執行人が、明確な「悪」に対して「正義」の鉄槌を下す姿は、分かりやすく、感情移入しやすいかもしれません。しかし、その単純化された構図を現実の死刑制度に当てはめてしまうことには、大きな危険が伴います。現実の司法プロセスは複雑であり、冤罪の可能性もゼロではありません。そして何より、国家が人の命を奪うという行為そのものが持つ倫理的な重みから、目をそむけるべきではないのです。エンターテイメントを通じて「裁き」が身近なコンテンツになったからこそ、私たちは現実の刑罰、特に死刑が持つ本質的な重さについて、より一層真摯に向き合う必要があると言えるでしょう。
フィクションと現実の境界線―私たちが向き合うべき「正義」の姿


フィクションは、時に現実社会が抱える矛盾や人々の憤りを鋭く映し出します。例えば、ある漫画で描かれた「何も覚えていません…」と嘯く“高級国民”が起こした凄惨な交通事故。こうした物語が「いきなり怖すぎ」といった声と共に読者の共感を呼ぶのは、現実世界でも囁かれる「上級国民」問題のように、法の下の平等が必ずしも機能していないのではないかという、社会への不信感が根底にあるからです。物語の中で、こうした不条理な悪が裁かれる展開は、読者に強いカタルシスを与えます。コミックの映像化やドラマのコミカライズなどが多い今、エンタメ好きとしてチェックしておきたいホットなマンガ情報をお届けする「ザテレビジョン マンガ部」などが取り上げる作品には、こうした社会の歪みを反映したものが少なくありません。
しかし、ここで私たちは冷静に立ち止まり、フィクションと現実の境界線を明確に引く必要があります。物語の中で描かれる勧善懲悪や私刑による「正義」の実現は、あくまで作り手の意図によって整理された世界での出来事です。そこには、現実の司法が直面するような証拠の不確実性や、複雑な人間関係、社会的な背景といった要素は、物語を円滑に進めるために簡略化されていることがほとんどです。私たちがフィクションに感じる爽快感や怒りの共感は、現実社会で同じような行動を肯定する理由には決してなりません。
法治国家における「正義」とは、個人の感情や義憤によって左右されるものではなく、定められた法の手続きに則って、公平かつ慎重に実現されるべきものです。もちろん、その法制度が完璧でないことも事実であり、改善の努力は常に必要です。エンターテイメント作品が提示する「もしも」の世界は、そうした現実の制度について考えるきっかけを与えてくれる貴重な存在です。しかし、フィクションで描かれる安易な「解決策」に飛びつき、現実の複雑な問題を単純化して語ることは、より良い社会の構築を妨げる危険性すらあります。私たちは、エンターテイメントを楽しみ、そこから社会問題を読み解く視点を得つつも、現実世界で求められる「正義」のあり方については、常に冷静で多角的な視点を持ち続けることが不可欠なのです。
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参考文献- 『デアデビル:ボーン・アゲイン』“怒れる処刑人”パニッシャーって何者? – 海外ドラマ – ニュース
- 「執行ボタン押すのスキマバイトです」こういう処刑をエンタメ化する人間の存在に一般人が死刑執行へ携わってはいけない理由が詰まっている
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